平倉さんの「形は思考する」の第3章、「マティスの布置」でのマティスの2枚の「夢」についての記述において、それぞれの局所でバラバラに起こっている事がありつつも、全体でそれが一つになっているという、局所と全体の関係性が一つのテーマになっているのではと思う。そして、p93のマティスの「音楽」に関する記述の注釈12で、イヴ=アラン•ボワは、「音楽」の少年たちの眼差しが、観者の視線を捉えて離さず、画面の全体を見ることを不可視にすると指摘し、……略 とある。
この記述を読んで、展覧会で直に絵を見る時の自身の体験に近いものがあると思った。
例えば、富田さんや水上さんの展示では、絵の局所的表面の物質性へと視線がいき、そこから連続的に他の局所へと視線が滑っていき、全体を見る事ができなかったし、エヴェリンの展示でも、局所への興味から思考が始まった。こういった事は、他の展示で絵を見る際にもよくある。
実際の展示で絵を直に見ると、画面の表面の絵具や物質の凸凹や表面の質に反応してしまう。そして、それを覗き込むように近づいて、迫って見てしまう。なので、画集などで平面に統合された図版で見る時よりも、直で見る際は、局所への集中に目を奪われて、全体をなかなか把握できないことが多々ある。(図版の場合、平面に統合されているだけでなく、サイズが小さいので、全体を見渡せるのもある。)そして、直で絵を見る際の自分の興味が、局所への集中から始まるため、どうしても、絵の全体と、局所という関係性を問うという事が、問題設定の起点として働く事が多いのかもしれない。局所から入ること、周りが、全体が、見えなくなる事。これは、展覧会で絵を直に見る際の、自分の癖のようなものだと、覚えておきたい。
2024.3/1