絵の画面中央左の死体?を奥の暗い空間へ運んでいく人々。画面上ではここが最も深い奥行きだか、その手前で影で暗くなっている男と彫刻が奥行きに嵩張って蓋をする。それにより、観者の視線は画面手前に注目が集まり、全体に平面的な印象を与える。
全体の構図に、右回りの回転が見える。回転は、画面に見える色面とその輪郭線により構成されている。以下その説明。 まず、画面右上の角を斜めに照らす光の輪郭線、画面右のフレーム下部から、3人の女の中央に直線的に向かう地面を照らすオレンジの光の輪郭線、画面左下の男の座る椅子の後ろ足から、中央オレンジの椅子へと続くタイルの斜め線、これらは画面を見ているとそこに浮かんで見えてくる幾何学的な色面と輪郭の構成で、それは右回りの回転の方向を構成している。そして、画面中央のオレンジの椅子は、回転の中心軸として機能しつつ、その背もたれも右回転への方向を指している。背もたれは、左手前の影になっている男の右腕の角度と対応している。さらにこの男のポーズのそれぞれの両腕の角度によって、右回転は反復的に示唆されている。この回転は、観者の視線の方向を画面の奥行きから画面の横滑りへとシフトさせる。
深い奥行きのある画面は、奥行きの手前に男と彫刻を置く構成と、全体が構成する右回転の方向によって、平面的になりつつ、しかし新たな奥行きを再構成する。それは、竜巻を上から見た時の様な、奥行きをみるものの位置が不安定な位置にさらされる奥行き。一点透視図法的に距離が線で示されるのではなく、円環の中で不明確で不安定な距離を除いているような奥行きである。
この様に、本来の一点透視図法的な奥行きのある画面中央左部分は、それがパッと見、見えてこない。しかし、この奥行きが作動するタイミングがある。
画面右の女達に光が当たっている。オレンジの布を頭から羽織っている女が、右手を画面左へ向けて掲げている。このポーズから劇的なドラマを感じて、その手の指先が示す先を見ると、左に、死体らしきものが運ばれているのが見える。その瞬間!はじめには見えてこなかった暗闇の奥行きに気がつく。観者はその突如見えてきた暗闇の中へと、死体を運ぶ物語と共に運び込まれる。その不気味な絵の奥にある奥行きに、観者は物語の想像を急激に深めていく。それと同時に、やはり手前の男と彫刻にも目がいくため、三者間(女たち、手前の男、運ばれる死体)それぞれの関係性が結ぶドラマが、観者自身の体験共に改めて見えてくるのだ。
つまり、一点透視図法の奥行きが隠されている事には、この画面の論理があった。一点透視図法の奥行きは、物語の読み込みと共に順を追って、ある時急激に見えてきて、観者の身体ごとその物語の深みへと招き入れる。その後、画面での物語は、観者の身体的な体験と共に語る事を始める。
ここで重要なのは、画面での物語の語りと空間把握が、ある関係性を持って構成されている事。そして、物語の作動装置として、先の女のポーズと、そこに目がいくようにされた光の演出という構成がある。
画面左の男は、こちらに身体の正面を向けるが、観者に目を合わせない。どこか別を見ている。その意味で、観者がいる場所と、この画面内には描かれた場所は、切断されている。男からは、私たちは見えていない。世界としては関係していない。(マイケル•フリード 没入と演劇性 絵画は観られるために描かれるが、絵画に描かれる人物がその事に自覚的になると、演劇的でいやらしいものになってしまう、という問題とそれに対しての実践が書かれる。その中で、絵画の前にいる観者の存在を消す方法の議論される。私のここでの記述はその議論を借用している)そして、観者はドラマには参加していない。例えば、男がこちら側に目を合わせてくれば、それは何かを観者に求めてくる、誘ってくる、または関係してくるということで、観者はこのドラマ内に参加可能だろうが、そうではない。あくまでも、画面内の世界線、そこで起こるドラマと観者のいる世界とでは隔たりがあり、別世界のことである。私たち観者は、この画面内を別世界のこととして自覚して受け入れた上で、その距離をもってのぞくように観る。
その事は、この絵の構成の印象からも伺える。こちらに大げさにドラマを訴える人物たちのポーズ。前述した、一点透視図法的奥行きを潰し、平面的かつ、不安定な奥行きを再構成する画面は、どこか演劇の舞台の空間と似ている。(舞台はそんなに奥行きがない。横に並ぶ人物たちの関係性でみせる点で平面的だし、観者との間の距離は不明確かつ不安定)
フリードが没入と演劇性で扱う、マネ以前の18世紀フランス絵画は、この様な絵画内と現実の世界の隔たりがあり、絵画内の事を、現実とは切断された一つのフィクションとしているように思う。そして、現実とは関係を持たない、別世界の中に参加するための観者の位置が、ある意味演劇に参加する役まわりのように設定されている絵画も多く見る。(特にヴァトーやフラゴナールの絵画にその顕著な例を見る)
画面の構図が右回転になっているのと、左手前の男と彫刻が左中央の一点透視図法の奥行きを塞ぐ。平面的かつ竜巻のような不安定な奥行きを再構築。そのため、観者がパッと見で本来この絵画にあるもっとも深い奥行きへと入り込めない。男とは目線が合わず、加えて全体の演劇の舞台的な構成の印象によって、観者は絵画内世界とは関係できない、画面が観者の介入を否定するところから始まる。その後、画面右の女のポーズの指先に案内されると、運ばれる死体と同時に一点透視図法の奥行きが見え、観者の没入体験が、物語の深まりと共に起こる。同時に手前の男が見えて、女たち、運ばれる死体、男、の三者間の物語が、改めて没入した観者の身体へと、体験として語られる。