前半は、みんな、日常での会話を定式にそって淡々と行なっている印象。時には、ストーリーに必要あるのか分からないくらい細かい社交辞令のようなやりとりがよくある。
「なんか飲む?」「大丈夫」「悪いね」「ううん」「お疲れ様」のような合いの手が、会話の間を埋めるように入ってくる。そういう抑揚の少ないリズム。
途中から感情を結構剥き出しにして会話するみゆが現れる。
みゆははじめから、紗枝が寝ている雄也を足でつつくのを「やめなよ!」と不快そうに注意していて、そこでようやく登場人物に人間味を感じて結構ホッとした。
冒頭のバスケのシーン
自分自身の「現在」の気持ちを現す単語を言いながら、ボールをパスしあっている。
故人のことについて思い出す雰囲気になってからは、言葉は段々と「わかる」「わかれる」「わかれない」「わからない」など、複数の解釈が出来そうな意味のものになっていく。単語だけが人から離れて宙吊りになっていくようにもみえる。そして、その状況は物理的にも起きているように感じた。
人の輪の中の上空で一瞬、言葉がボールによって物化しているようにみえた。誰かがそれを受け取るまで、言葉がボールという物になることで自立している。
それを誰かが受け取り、ボールと共に言葉を所有する。そして、再びボールに別の言葉を乗っけて、手放して、自立させて…といった風なやり取りにみえた。
みゆは、後半になるにつれて、美しい、汚い、清潔、などの言葉を紗枝や雄也にぶつけるように使う。
そして、それらの言葉の意味を雄也に何度も問われる。家族とは?今って?美しいとは?と。
みゆは「やめて!」と、その問いを拒否するような態度を取っていて、言葉を一度所有した形のまま、なるべく手放さないようにしているようにみえた。
バスケの時の、言葉をボールに物化させて手放してから相手に受け渡すやり取りと比較すると面白い。
なぜみゆはそれらの言葉を手放すことを拒否していたのか。
そのことと、みゆのお父さんが政治家という家系や、なくなった姉がレズビアンだったことの受け入れられなさがどう繋がっているかは、この演劇の重要な主題になっているように思う。