感覚の論理学でドゥルーズは、ベーコンの絵を図像、物質的構造、輪郭、と3つのシステムによって記述していたこと。それらは、概念であると思う。図像とは〜である。と文中それぞれ定義付けられるし、定義は議論が進む中で見直されたり、内部で分裂して差異化したりして、変化していく。 それは、単に画面に見える客観的事実を書いていくというよりかは、絵で起こっていることを概念の構造体として「まるごと作り変える」ことに近いのではないか。  概念の構造体の記述の妥当性は、絵を見て「実際にそう見えるか」を先置いて、概念の構造体の構造の論理の強度が基準になってくる。それは、絵を見る方法の発明だけではなく、絵を言語で作り直して、分身させている。「絵が、言語領域で分身している。」 そして、感覚の論理学では、概念の構造体として分身した絵と、オリジナルの絵、両方を対象として扱って、議論を進めているように思う。つまり、対象が二重化している。

絵を見る時に生じる、前言語的な体験や感覚すらも、言語領域で分身した絵に備わっているとしたら、それは震えるぐらいとてつもないことなのでは。 感覚の論理学でその様な事が起こっているのかは、いつかしっかりと検証したい。

この事に習って、作品分析の際、概念の構築まではいかなくとも、図や立体、文、または印刷された紙に何かするでもいいので、その作品から私が発見した事から構成した作品の分身を構築しきる。それと作品オリジナルの2つの対象からさらに作品分析を進めていくという事は可能だろうか。その過程で、その作品をいかに見るかということが、方法論として発明きればいいな。

2024.2/8