私は世界で有名になるために、これまで「元気な作家」として巨大な絵画群を人々の間に広めてきた。しかしそれによって、それぞれの人々と私の絵画との関わりは、一つの作家像という紋切り型に収められてしまう事を感じた。 私の事に限らず、作家像は、作家が意図せずとも、資本的な価値や歴史的な評価という外部の力によって、絵画と鑑賞者の間にフィルターとして設置される。 その様な状況において、絵画と人々との固有の関わりの「機会」はいかに作れるだろうか。 私はそれを「絵画における身体性の刷新」や「絵具と人間の関係性の再構築」で実践している。

2020年のMAHO KUBOTA GALLERYでの個展「ゆらいむうき」展では、鑑賞者が実際に「動かせる絵画」を発表した。

絵画において「身体性」という言葉が用いられる事がある。その議論で有名なものに、ハロルド・ローゼンバーグのアクションペインティングがある。 例えば、ジャクソン・ポロックの絵画の痕跡から、ポロック自身のドリッピングの描画行為を想像する事を「身体性」と呼ぶ事がある。 しかしそれならば、鑑賞者が「行為」を想像できる痕跡を見出せたら、どんなものにでも、そこには「身体性」があるという話になってしまう。 その事は、絵画を見る鑑賞者が、「過去」の画家の身体を空想しているに過ぎない。対して、私の実践は、鑑賞者の「現在」の身体に起こっている事を、絵画でどの様に実体化させるか、というものである。

一方で、ジル・ドゥルーズは感覚の論理学で、フランシス・ベーコンの絵画の「図像」は肉体に属する神経系統に直に作用するものだと論じた。 その様な作用が、絵画が置かれる場(美術館やギャラリー、誰かの家、SNSなど)での人々のコミュニケーションという「脳」を媒介する作用によって、上書きされるのを経験した事がある。 私は、むしろ鑑賞体験において、場での出来事が絵画のイメージを作ると、逆説的に考えている。だからこそ、絵画をイメージの表象以前にまで遡り、その素材である絵具を自立させる。 私は絵具と人間の関わり、または共同において、絵画を見出す。

「動かせる絵画」において、絵具はそれ自体が可変可能な運動体となり、鑑賞者によって直接動かされる。 絵具を動かしている鑑賞者の身体は、絵具の動きによって画面上に実体化される。その「実体化」は、場に公にされるものだが、同時に、絵具とそれを動かしている鑑賞者の間だけに現れるイメージの「実体化」もある。 それは、私が夜の山の中で「スケッチしていたもの」に由来する。

夜の山の暗闇の中では、視覚を通して事物を知覚するのではなくて、自らの身体の五感の感覚の総体で視覚を作り出す。 例えば、暗闇から草が押し潰される音が聞こえると、私はそこに獣のイメージを想像する。しかし、その姿を暗闇の中に確認する事は出来ない。その事態がよりいっそう私に獣を「見させてくる」。

絵具を動かしている鑑賞者にとって、絵画はまさに夜の山の暗闇であり、それは「私だけの見る事の実感」を身体に与え始める。 「絵画における身体性」はもはや、鑑賞者の空想という私的領域のみならず、絵具とそれを動かす鑑賞者によって、両者の関わりの間と、公の場という二つの特定の領域にまで拡張されて、そこで絵画のイメージとして、または絵画に与えられた「生」として実体化する。

2023.4月頃