メランコリー
私の身体はここに描かれたメタファーと紐付けされてしまう。
2つの煙突と、画面上部に弧線を描く雲が画面内にフレームを作る。また、女の頭部と巻物も、そのフレームの構成要素として見る事ができる。すると、フレームが半ば二重化してずれながら作られているように見える。
フレーム内部と同時にフレームの構成要素の巻物は、自身を上に跳ね除けるように巻き取っている最中で、フレームを内部から掻き回す。そのせいで、フレームは崩壊しかけている。巻物は、フレームを作る事とその崩壊を同時に行なっている。
絵は、絵の前に立つ観者の身体へあるポーズを強要してくる。観者の視線はまず、明暗のコントラストが強く、最も画面前方に競り出ている、巻物上部と背景と、女の顔が密集する、画面中央やや左下部に向かう。一方、画面の右端は少し暗くなっていて、よく見ると一点透視図法の線(鉛筆の下書き?)がみえる。線は机の側面の角度に対応して、そこから地平線へと一直線に伸びている。そして、画面右端の中央がちょうど消失点となっている。観者の位置は、消失点のある画面右端にずらされる。★1 よって、画面の前の観者は、身体は画面の右へ位置され、視線は画面中央左の巻物の上部へと向かい、左右に引き裂かれる。 その時、観者の身体がとるポーズは、ちょうどフレーム内にいる女がとっているようなもなのではないか。左に頭を寄せて、身体を斜めに傾けるポーズ。女の足場を身体の傾きから想定すると、ちょうど画面の右端に位置する。そこは、観者が画面の前に立つ場所とほとんど同じである。そして、その位置から、頭部を画面の巻物上部へと向かわせると、身体は左斜めに傾くポーズを取る。観者と女は身体のポーズをシンクロさせる。そうなると、まるでフレームは鏡のフレームに見えてくる。そこには観者の身体のポーズが、女によって映し出されている。 または、こうも考えられるかもしれない。観者は、画面右端に位置しながら巻物の上部を見る際、わざわざ頭を左側に持っていかなくとも、視線だけそちらに向ければよい。しかし、女のこのポーズ、左に頭部を傾ける姿が目に入ると、観者はそれにつられて模倣したポーズを取ってしまう。左に頭部を傾けて、女と一緒に、フレーム内部をのぞきこんでしまう。それは、巻物が自身を巻き込む左回転の運動に観者を巻き込んで、女の顔に引き寄せる力を発生させているからだ。★2 観者が女の顔に近づいても、決して観者と女との視線は交わらない。女の視線は少し上を向いていて、観者の位置から外れるため、だからこそ観者としては負荷なく、女の顔や巻物の上部付近へ、頭部を傾けて顔を近づける事が可能になる。
左に傾いたポーズをとる観者の身体のちょうど真ん中に割入るように、煙突がある。そこから煙と雲どちらとも取れるとのが出ていて、天使たちがいる。 天使たちの配置と彼らがとるジェスチャーは、観者が顔と身体とを画面左右に引き裂かれているのを、メタファーとして示しているようだ。雲を左右に隔てた彼らのある関係性がそこにある。 雲の左にいる3人の天使たちは、雲を右へと押し込もうと力を込めているため、雲に重力を感じさせる。一方雲の右にいる1人の天使は、雲の上にどっしりと乗って、ギターを弾いている。この天使が雲に重力を加えているせいで、左の天使たちは苦労しているのだろうか。観者の左右の引き裂かれという出来事に、天使達と雲の小さなドラマが乗っかる。右の天使は、自身が雲に乗る事で重力を加えると同時に、手に持つギターの先端は、画面の一点透視図法の方向と一致し、画面右端の空の空間への軽やかな方向も示す。
天使たちの上に浮かぶ雲を見ると、2つの丸い形が左右に分離しながらせめぎあっている。そして、この煙突の上に浮かぶ雲も、画面の左右に2つあり、それらの間で引き裂かれるように引っ張られて弧線を描く雲は、観者の身体の状態をメタファーとして示しているようだ。
この様に画面での出来事は、左右に引き裂かれて斜めに傾いた観者の身体と紐づけられて、そこに意味が生じていく。画面の女に、観者は私自身を見る。煙突の上の天使たちのドラマが、観者の身体に直接意味するものとして、画面上で小さなスケールに焦点化される。また、画面上部で弧線を描く雲は、観者の身体の物理的な条件を変質させる。そこで観者は、空に浮かんで重力から解放されて、気体となって伸ばされる感覚を身体で感じる。
★1 マイケルフリードは「没入と演劇性」で、ダヴィッドの絵画において、一点透視図法の消失点を画面の横にずらすことで、観者の位置も横にずらす事を、分析している。
★2 平倉圭は、「かたちは思考する」で、形象と見る者との間に起こる関係を「巻込」と呼び、「巻込み」は、「模倣」であると論じている。