YouTube用アイデアが少しあるので出したいのだが、そっちに力をあまり入れられない。出すとしても週一回とかにしたい。

中学生の頃、ダリの絵と彼の存在とに初めて出会った。はじめは、美術室で、古典絵画の画集の中に、イラスト絵みたいな奇抜な絵柄のものが混じっていて、浮いていた。それがダリの絵。たしか、女の人(ガラ?)が、めっちゃデカイ粘土みたいな物体の中に入って頭だけ出しているようなやつ。画面は他にも色々散らかっていた。

それで、家で両親にダリという画家を知っているかと聞くと、テレビによく出ていた、奇抜なおっさんだ、と言われ、「結構国民的な人なんだな」と思った。その後、図書館に行くと、ダリはそこにも置いてあった。ダリは、あらゆる公共機関を横断して私の生活のどこにでも出没する存在であった。古典絵画に混じっていたのに、テレビにも出て、国民性もあり、町の図書館にもある。そして、私は美術を初めると、ダリの絵よりも、ダリ本人の作家像の演出に興味をもち、活動の参考にして、(そして色々あり)現在は、ダリの絵を見たり分析している。そうしてみると、ダリと私の私的な出会いの話は、ダリの絵画の構造とも無関係ではない事が分かってくるのだが…。ダリの絵と、ダリの活動は、多義的な観客層を分裂的に形成する。

しかし、ダリやダリの絵の分析は、ここでは行わない。

私が言いたかったのは、今考えているYouTubeのアイデアは、作品制作とはあまり関係ない事で、制作の事もそこにねじ込んだ方がいいのかと悩んでいたが、別に無理にそんな事やる必要がないんじゃないかと、ダリの事を思い出して思ったこと。私の実践が、あらゆる場で、別々の観客層をもし作ったとしてもいいのではと。しかし、問題はその先にある。ダリは観客層の多義化の後、どうその状況と自身の活動の全体性とに収集をつけたのか、もしくはつけられなかったのか。その事を、今後考えていく必要がある。

私は2018年の個展「村井のいっぽ」以前、自身の活動において、私の絵画の問題を見る観客と、私の作家像のキャラを見る観客の乖離を招き、同時に私自身の主体もその乖離に晒された。結果、私の作家像のキャラを見る観客の反応が、絵画の問題を包括する事になり、私自身の主体においても、そういう比重が出来上がった。その後村井のいっぽという個展でその状況の脱却を目指すが…失敗する。この話は今度「活動の遍歴と現状について」という文でしっかりまとめて出す予定なので、ここまでにするが、とにかく今現在の実践をざっくりと言うと、活動していると起こりうる、作家自身をみる観客と、作品をみる観客との乖離の構造およびそれらの関係性を、いかに問うか、という事が重要なテーマの一つとしてある。なので、もし、YouTubeでの事と、作品制作の事が全く異なり、再び観客層の分断がおこれば、それらの関係性をクロスオーバーさせるような実践を行いたい。その事は、頭に入れておきたい。でないと、昔の自分の二の舞でもある。そんな事を言っても、現在も、自身の作家像としての在り方と、制作の内容の乖離に戸惑っている段階であるのだが。

こんな風に書いているが、まだ何も起こっていない。とにかくそれぞれやれる事をやってみて、その後に成り行きに従って考えていけばいい。でもその際、ここに書いた様な事は、忘れないで置いておきたい。

2024.2.6